ワオン物語(2007年~2011年)

ワオンの活動を開始した2007年からを設立者の田中が語ります

Tanaka of the founder speaks from 2007 when the Waon Project started its work 

1、はじめに
 大阪市内のマンション511号室をいわゆる“住み開き”として『日常避難所511』という名称で仕事帰りの夜8時から『都市部の秘密基地』的に開放するようにしてから5年。ほぼ毎日の様にここには様々な相談をしに“避難民”が訪れてくる。

 いわく“デザイン会社に就職したのですが美術史を学びたくて“”芸術大学に通っているけれど、授業についていけなくて“または”企画を考えているのですが、場所や内容、資金調達をどうしたらいいかわからなくて“あるいは”公民館に施設を借りにいったけれど断られてしまって“はたまた単純に”終電逃したので泊めてくれませんか?“などなど、年齢や性別、職業などの属性は多岐にわたり、気づけば訪問人数はこの5年間でのべ約5000人を数え、しかも毎年増加しつつある。

 そして、そんな混沌とした『日常避難所511』を現在の日々の拠点とし大阪を中心に2007年から活動しているのが、2017年現在『文化のセーフティネットを創る』をコンセプトに銀行員でもある僕を代表に、書家、職人、デザイナーなど、様々な専門性をもつメンバーを中心に、いわゆる本業の合間に無理のないパラレルキャリアとして活動している一般社団法人ワオンプロジェクトだ。
 
 今回は活動10年目と、団体として一つの節目を越えた事もあり、これまでの活動について簡単ですが紹介させていただけたらと考えています。それが『何かの一歩を始める人』の参考に、また大阪の10年間の文化行政史を振り返るにあたり、これまでと違う視点を提供できていたのなら幸いである。

2、契機(具体、新世界アーツパーク事業)
 さて、そもそもの話になるが、何故ワオンプロジェクトの活動を始めたか?といえば、話は10年前の2007年前後まで遡らなければならない。大学の経済学部を卒業し、そのまま銀行に新卒として就職した僕は、それまでの人生において文化芸術の専門的教育を受けた事もなく、また、たまには美術館にゴッホやピカソなどの有名な芸術家の展示に女の子とのデートで観に行く位で、お世辞にも文化芸術に特に関心があったとは言いがたい人間だったからだ。

ただこの年に、世界的に有名な前衛芸術家グループ『具体』元メンバーであった、故嶋本省三氏、また同氏が主宰する『AU』メンバーのイベントやパフォーマンスに参加した事をきっかけに意図せず偶然に交流が始まった事。
また、その延長として、大阪市が“これまでの文化施設の概念に捕らわれない、機動的で専門的な芸術拠点として”商業娯楽施設フェスティバルゲート内に2002年から展開していた『新世界アーツパーク事業』で活動していたダンス、映像、詩など異なる分野のアートNPOを訪れていた事が結果として、僕にとってアート、そして文化芸術への関心を深めさせ、ついには直接的に関わる契機になったからである。

 何故なら、当時、銀行員としてバブルの不良債権処理に関わった後に、今度はITバブルの中、新規事業担当として様々な企業を評価し融資する、いずれにしても『お金とそれに関わる人』に振り回される日常であった当時の僕は、そこで行われていた評価の定まらない実験的な作品、パフォーマンスを拝見した事に予想を越えた驚きを受けたからだ。

 既に高齢であったにも関わらず、工事用クレーンに高々と釣り上げられて、そこから絵具の入ったビンを真下に投げて作品を空中で自由自在に描く嶋本昭三氏。そして、お弟子さんでもある新聞女こと西沢みゆき氏による新聞を素材に即興で何メートルもの巨大なドレスを制作するパフォーマンス。他にも、れぞれに自分だけの素材や手法で表現する個性豊かなAUのアーティスト達。

 そして、新世界フェスティバルゲートの各拠点のNPOが毎日展開されていた、学校の授業で学んだ事もなければ、これまでの人生で出会った事もなかった、多種多様で、そして自由かつ熱のある各アーティスト達の表現。

 平易な言い方ではあるが、それは数値化され、評価される事にしか価値はない。そんな自身のこれまでの人生、そして職業人としての『毎日の常識』を根本的に覆す体験だったのだ。そして“人が人として自由である為には、お金だけでなく、こうした感覚的な表現こそ大切にしていくべきではないか?”そんな魅力や可能性すら感じてしまったのである。(もっとも印象が強かった分、大阪市が新世界アーツパーク事業を事業途中の2007年で中止してしまった事をとても残念に思った事も当時の記憶として今も鮮明に覚えている)

 だからこその自然というより必然の流れで、以降、嶋本昭三氏主宰のAU以外にも、幾つかのアートNPO、イベント団体で自身の専門性を活かし、企画書作成や当日進行などのボランティアスタッフとして自主的に、そして具体的に活動を応援する日々を過ごし始める事が僕にとって自然になっていく中、今度は、様々な活動初期の若いアーティストやクリエイター達との交流を深めた事で、彼らの多くが一様に同じ悩みを抱えている事を知る事となる。それが直接的な意味で言葉通り『発表場所や機会が少ない』という事だった。
 
”自分の描いた作品で個展をして見たいけれど、ギャラリーを使用するにはお金がない””制作作業をする為に作業場所や倉庫を探している””フリーマーケットに出展したいのだけど一時的に機材を置く場所が欲しい””イベントや企画の会議にお金のかからないスペースを探している”
 
 それらの事を”無自覚”に『自分自身の問題』としても共感し、そして、ささやかな形でも『解決する為』に自由に利用できるスペースを漠然と探し始めていた時に、大学の同級生でもある不動産会社から別口で小さな店舗物件を偶然、大阪は日本橋、黒門市場付近にて好条件で紹介してもらい幸運にも契約する事が出来たのが、今度は『ワオンプロジェクト』として活動を始める全ての契機となった。

3、活動2007年〜2012年(アトリエ輪音、ワオンプロジェクト、伝書鳩)
 結果から先に言えば、その小さな店物件、元飲食店であった場所を、僕を含めたSNSで募集した有志で改装し2007年から2012年まで5年間運営した。そして当時はまだ珍しかった多目的『日替わりシェアスペース』名称を『アトリエ輪音(わおん)』と名付けてスタートさせた場所が結果的に後にワオンプロジェクトという団体を設立する母体になった。
 
 ここでは、運営当初から毎日、様々な若いアーティストやクリエイター達に対して『発表場所や機会が少ない』を解消する為に、個展会場やイベントスペースとして場所を無償で提供してきたが、結果としてその事が周辺の商店街他、様々な地域団体からブース展示やライブパフォーマンス、ワークショップなどの形で地域の『まちおこしイベント』の相談や参加を数多く依頼される事になったからだ。
 
 そして、それらに協力させていただく中で、気づけば“若手アーティスト、クリエイターのインキュベーション団体”と外部に紹介される機会が増える中、『アトリエ輪音』という場所としてだけでなく、『ワオンプロジェクト』と新たに団体名も名乗る事が、単にメンバーの中で”言い出しっぺであり、同時に年長者だった”だけの理由でその時に『代表』になった当時の僕にとっても自然に思われたからである。

 そうして『アトリエ輪音』という場所と『ワオンプロジェクト』という団体としての活動がしばらく並行して継続していく過程で、今度は新たに『企画団体』の一つとして関わる事になったのが、大阪市がアートNPOと共同で2006年より取り組んでいた『芸術系NPO支援育成事業』のノウハウを引き継いで、市の直轄事業として2010年に新たに中之島に開設したアートインフォメーション&サポートセンター『中之島4117』だ。

この4117では、ワオンプロジェクトの活動の延長とも言える“若手アーティストやクリエイター、表現者に発表、発信の機会を提供する”事を目的にした『伝書鳩プロジェクト』というトーク、フォーラム企画を2011年、2012年と中之島4117、大阪市役所を会場に担当する事になったのだけど。
 
 ワオンプロジェクトという団体としては初の大阪市との直接的な共同企画であり、その事で予想以上に戸惑う事や苦労も数多くあったが、2年間の事業に関わらせていただいた期間中に、大阪のみならず関西各地の様々な若手表現者を約60組、幅広く紹介出来た事は、個人的には、これまでに周囲に認知されていた“若手アーティスト、クリエイターのインキュベーション団体”としての活動の集大成として、ひとまずは総括する事が出来たと考えている。(中之島4117、そして伝書鳩という事業自体は、残念ながら2012年に橋下市長就任に伴う大阪市政の変化の煽りを受けて途中終了)